新型コロナの風景 No.17 オリンピックの産声 東京の青い空

 梅雨が明けて、東京は青い空が拡がっています。大きな入道雲に気がついて、今が夏なんだとあらためて感じています。東京は大都会なのに、こんなに綺麗な空があると世界の人に見ていただきたい気持ちになりました。

(こんな時、高村光太郎の『智恵子抄』の冒頭を思い出します。『智恵子は言った。東京には空が無いと…』いつ頃の話だったのでしょうかしら?現代の東京にはこれでもか!というぐらいに勢いのある青い空が拡がっています🌤)

オリンピックとコロナの事で泣いてばかりいた東京ですが、自然は、そんなことにはお構いなく晴れの日には晴れの顔を見せてくれるんですね(^.^)

盛り上がらない東京オリンピック。というより盛り上げてはいけない東京オリンピック。毎日が批判の嵐で吹き荒れています。

まるで望まない妊娠をした女性に「産んではいけない」と周囲の人間が騒いでいる姿に似ているように感じます。妊娠すれば確実に出産の日は刻一刻と近づいてきます。

確実な出産予定日が5日後に迫っています。もう、産むのを延期なんてできなくなってしまいました。

思えば、「開催地東京!」と決まったあの瞬間、東京はオリンピックを孕んでしまったのだと思います。

色々ありました。一度決まったポスターが変更になったことや、都知事の交代。オリンピック委員長のセクハラ発言と辞任。そして、コロナの世界的な蔓延。今尚、それに苦しめられています。東京都民はその度に吹き荒れる嵐の中を、コートも着ないで無関心なまま足早に歩いて来ました。

そんな紆余曲折してきた東京オリンピックがもうすぐ産声を上げます。

新型コロナの風景No. 16 6月17日 

 早いもので、今日は6月17日…。つい最近、オリンピックまであと2ヶ月と言っていたように思うけど、もうすぐ1ヶ月ということになりますね。はい…。ため息が出ます。

 インドでは先日、医師が1200人、コロナに感染して亡くなったと報道されていました。本当のことですか?その数値が信じられなくて何度も問いただしたくなりました。信じがたい現実に、まるで、まだ幻想の中を歩いているのではないかと錯覚してしまいそうです。

 そんな中でオリンピックの話は、これもまた、非現実のことのように感じて、何だか毎日がフワフワと浮いているようで、つかみ所のない日々が、ただ過ぎているだけと感じているのは私だけなのでしょうか?

 でも、東京を歩いていると、人が多くなりました。その中には外国籍の方もかなり多く見られます。日本人かと思っていても、外国語を話されて、ああ、やはり異国の人なんだなと気づかされたことが多々ありました。昨年と大違いです。

 以下、削除しました。

新型コロナの風景No.15 コロナ禍の五輪 愛のない結婚

 今日も、ブログを書こうという意欲が出ました。書かないでいると、気力が湧かないけど、書き始めると、脳が書きたがるようです。こういったことはやはり、習慣というか癖にしないといけないようですね。

 東京オリンピックまで、今日で丁度2ヶ月後に迫りました。ここまで来ると、もう、何が何でもやるのだという勢いを感じます。新型コロナ何てもう、どうでもいいから、実行することだけに力を注ぎたいという政府の気持ちが伝わってきます。

 この勢いを、何かに例えようとすると、私は愛のない結婚に似ていないかなと思うのです。親が決めた結婚。当人たちはなかなか気持ちが乗らないのですが、周りの人間が結婚のための準備をしてしまうという感じでしょうか。

 心は盛り上がらないが、結婚が迫ってきている。ある意味、二人は恐怖さえ感じるようになっている。特に女性は、いつ逃げ出そうかと身構えている。しかし、逃げることはそう簡単ではない。親族の強制力もあるし、第一、親が許さないでしょう。

 どうしようか、どうしようかと思っているうちに結婚式になってしまう。

例え、演技でもいいから式だけは立派にやろうかと考えて、少し憂鬱になるあの気分…。

 オリンピックが、こんなに盛り上がらない大きな理由は、街がとっても静かだということ。パレードもなければ、祝いの飾り付けが殆ど見当たらない。お酒を交わして陽気に彷徨く人もいない。

 それもそのはず、新型コロナ感染を防ぐために騒いではいけない。店は営業してはいけない。人が集まってはいけない。「オリンピックが楽しみ」なんていう発言は口が裂けても言ってはいけない

 本来ならば、街は大騒ぎで、お酒を飲む人や歌を歌ったり踊ったり、そうした人で溢れていたはずなのに…。

 大きなイベントが行われる時の楽しさは、その予兆にあるのだと思う。それが今は全部削がれてしまっている。

 しかし、それ以上に、国民の心の負担になっているのは、このことによって感染が広がってしまわないだろうかという不安で、国民は常に緊張している状況になっている。

 

 

5月22日 新型コロナの風景 No.14 コロナ 戸惑いの東京オリンピック  オモテナシ

 久しぶりに、このブログを開きました。ずっと開くのをためらってしまった。何となく、コロナのことにうんざりしたことが原因です。

ブログについては、気持ちが乗らない時でも、継続しないと中途半端で何でも終わらせてしまう癖がつくだろうと考えていたから、嫌になってしまった時こそチャンスと思うようにしていたけど、やっぱり間隔を開けてしまった。

 今は夜中の1時。眠れないので、何かに集中しようと思って、それがブログというわけです😄

 オリンピックは本当に行われるのだろうか?波のように寄せては返すコロナの感染者数。緊急事態宣言の効果も最近は弱くなんてしまったようだ。テレビでは何度目かの緊急自体宣言と呼びかけていますが、それに人の動きが伴っていなくて、ぐちゃぐちゃという感じです。

 それでもオリンピックはたくさんの人々に批判されながらも開催する方向のようです。まるで十字架を背負って歩く傷だらけのイエスキリストのよう…。

 当事者である日本人自身、傷の痛みを感じながら今はコロナなのかオリンピックなのか、ミソもクソも一緒というようなカオスのなかで日常生活が何とか営めるように舵をとっている状態です。

 思い起こせば、「オ・モ・テ・ナ・シ」という言葉に華やいだあの時が恨めしい気もするけれど、個人的にはオリンピックを早く実施して欲しい派なのです。というのも、ここで中止してしまうと、また、いつかということになってしまい、カオスが永遠に続いてしまう恐怖があるからです。

 いずれにしても歴史的に印象深いオリンピックになるのは間違いないと思います。

 中島みゆきの「時代」ではないけれども「あんな時代もあったねと、いつか話せる日がくるわ…」というように、その日はくるのでしょうか?

 どうなるにしても、時は流れているのですから、その日が必ず来ることは間違いないこと。

 100年後に、このオリンピックのことを人は何と語るのだろうか?

やっぱり、東京五輪は○○○…、と言われてしまうのか?

 おっといけない、日本人なら「オ・モ・テ・ナ・シ」を考えていかないと…。

オモテがないということはウラということか? 正確にいうと裏目に出てしまったということになると思うが…。

 まだ、オリンピックが始まったわけではない。長野オリンピックの時のように、始まったら急に盛り上がったというように一発逆転があるかも知れない。

 しかし、観客が殆ど日本人しかいないなかで、いくら日本が金メダルを量産しても、いや、量産すればするほど世界からみたら尚一層、白けてしまうのだと思う。

こんな風に、オリンピックのことを書いていたら、急に耳の後ろからオリンピックの歓声が聞こえてくる気がした。本当に不思議なことに…。