手塚治虫氏と私

 私が初めて手塚治虫氏の漫画を読んだのは小学校3年生の時であった。

 兄が漫画家志望(結局、公務員になったが)の影響で、子供にはなかなか手の届かないような漫画まで家の中に存在していた。

 私は、それらの漫画を兄が不在の時にそっと部屋に入り込み、時間が経つのも忘れて読みふけっていた。その中に手塚治虫氏の漫画も含まれていたのである。

 その当時は、漫画の作者などに興味は無かったが、ある日、手に取った漫画本に衝撃を受けてしまった。その本のタイトルが「火の鳥」であった。

 それは今まで読んできた本とは違っていた。人間の生命の根源を問うような内容であり、読めない漢字がたくさん並んでいるにも関わらす小学生の私は夢中で一気に読んでしまったのである。

 私は、その本を読んだ後、何か息苦しい様な気分を味わった。読んではいけないものを読んでしまった時の罪悪感が、幼い胸の中に拡がっていくのを感じた。「火の鳥」にはそれまでの価値観を覆してしまう鮮烈な衝撃があった

 初版は確か昭和43年であったと思う。それまで読んでいた「少年マガジン」や「少年サンデー」のような子供扱いをしている漫画本とはまるで違っていていた。

 それは、大人の世界を垣間みせるものであり、また、生命の深い溝に引きずり込まれるような恐怖にも似たものがあった。まだ、幼いこころの私に「火の鳥」は毒にも等しいものだったのだと思う。

 私は恐る恐る、この漫画を描いた作者の名前を見た。それが私が初めて眼にした「手塚治虫」という名であった。

 以来、本屋に出向く度に手塚治虫の名前が書かれている本を片っ端から探す癖がついてしまった。それまで読んだことのなかった彼の作品に出会うと、私は甘美な喜びを感じ、わずかな時間を使ってそれを読むことに陶酔した。

 当時の大人たちは、漫画を読むことにあまりいい顔をしなかったのである。それ故、漫画を手にすることに多少なりとも後ろめたさもあった。

 しかし、いつの間にか日本は漫画で世界をリードするような立場になっていった。そして、知らず知らずのうちに漫画は立派な市民権を得るようになり街や人ををデザインするようになってきた。

 そんな時、私は手塚治虫氏のことを思い出すのである。彼が日本の子供達に残していった想像力と愛情は、時代の流れと共にさらに拡大していることを。

 手塚治虫氏が生きていたら、現代社会の漫画の文化の隆盛を喜んでいたに違いない。

 私は「火の鳥」の初版を読んだ時から手塚治虫氏が自分の名声よりも、より普遍的な人間や宇宙の真実の探求のために身を捧げているのだということを子供ながらに感じ取っていた。  

  だからこそ彼の作品は普遍的なものであり、それ故、世界各国の多くの人々に共感とともに受け入れられているのだと思っている。