5月22日 新型コロナの風景 No.14 コロナ 戸惑いの東京オリンピック  オモテナシ

 久しぶりに、このブログを開きました。ずっと開くのをためらってしまった。何となく、コロナのことにうんざりしたことが原因です。

ブログについては、気持ちが乗らない時でも、継続しないと中途半端で何でも終わらせてしまう癖がつくだろうと考えていたから、嫌になってしまった時こそチャンスと思うようにしていたけど、やっぱり間隔を開けてしまった。

 今は夜中の1時。眠れないので、何かに集中しようと思って、それがブログというわけです😄

 オリンピックは本当に行われるのだろうか?波のように寄せては返すコロナの感染者数。緊急事態宣言の効果も最近は弱くなんてしまったようだ。テレビでは何度目かの緊急自体宣言と呼びかけていますが、それに人の動きが伴っていなくて、ぐちゃぐちゃという感じです。

 それでもオリンピックはたくさんの人々に批判されながらも開催する方向のようです。まるで十字架を背負って歩く傷だらけのイエスキリストのよう…。

 当事者である日本人自身、傷の痛みを感じながら今はコロナなのかオリンピックなのか、ミソもクソも一緒というようなカオスのなかで日常生活が何とか営めるように舵をとっている状態です。

 思い起こせば、「オ・モ・テ・ナ・シ」という言葉に華やいだあの時が恨めしい気もするけれど、個人的にはオリンピックを早く実施して欲しい派なのです。というのも、ここで中止してしまうと、また、いつかということになってしまい、カオスが永遠に続いてしまう恐怖があるからです。

 いずれにしても歴史的に印象深いオリンピックになるのは間違いないと思います。

 中島みゆきの「時代」ではないけれども「あんな時代もあったねと、いつか話せる日がくるわ…」というように、その日はくるのでしょうか?

 どうなるにしても、時は流れているのですから、その日が必ず来ることは間違いないこと。

 100年後に、このオリンピックのことを人は何と語るのだろうか?

やっぱり、東京五輪は○○○…、と言われてしまうのか?

 おっといけない、日本人なら「オ・モ・テ・ナ・シ」を考えていかないと…。

オモテがないということはウラということか? 正確にいうと裏目に出てしまったということになると思うが…。

 まだ、オリンピックが始まったわけではない。長野オリンピックの時のように、始まったら急に盛り上がったというように一発逆転があるかも知れない。

 しかし、観客が殆ど日本人しかいないなかで、いくら日本が金メダルを量産しても、いや、量産すればするほど世界からみたら尚一層、白けてしまうのだと思う。

こんな風に、オリンピックのことを書いていたら、急に耳の後ろからオリンピックの歓声が聞こえてくる気がした。本当に不思議なことに…。